原発こそが「我を立てる」存在

長田浩昭氏

「原子力行政を問い直す宗教者の会」事務局

2012年12月20日付 中外日報(論・談)

おさだ・ひろあき氏=1960年、石川県生まれ。日本大応用物理学科卒。大谷専修学院卒。真宗大谷派法伝寺住職(兵庫県篠山市)。著書に『原子力神話(鬼神)からの解放』(青草人の会刊)、共著に『いのちを奪う原発』(東本願寺出版部刊)、『原発 総被曝の危機』(原子力行政を問い直す宗教者の会編)。

1、反原発の根拠を教義に求める無意味性

「原発に反対する根拠は、親鸞聖人のどの言葉ですか?」「原発問題を仏教の教えでは、どのように説かれているのですか?」と、今まで何度となく質問されてきた。釈尊の説教や親鸞聖人の言葉の中に、「原発」などという言葉が存在するはずもないことは、質問する側にとっても明らかである。この問いの立て方そのものに、「仏教に学ぶ」ことと「仏教を学ぶ」こととの決定的な差異を感じてきた。この問いから生まれるものは、釈尊や開祖の言葉を後ろ盾にした「達観した教化者」であり、「現実から遊離した第三者」にすぎないのだと思う。

2、覚めない教学者の現実

先日、宗門内の大学に在籍する、ある教学者の法話を聞く機会があった。人間の根源にある問題として、「我を立てる」という煩悩のあり方を指摘され、「本当に恐ろしい考え方をする人々がおられます。東北の人々があれだけの被害を受けているにもかかわらず、自分の所にだけはがれきを持ってくるな、という人々です」と語られた。この発言こそ、「現実から遊離した第三者」であり、「達観した教化者」そのものであった。そもそも、「自分の所にだけはがれきを持ってくるな」という主張で、がれきの広域処理に反対している人はどこにいるのだろうか。

問題となっているのは、「放射能に汚染されたがれきの、焼却による広域処理」なのである。環境省が広域処理の対象としているのは、岩手・宮城に発生したがれき2300万トンの内の20%(約400万トン)であって、1キログラム当たり100ベクレル以下のがれきであるから、人体にただちに影響のないものとしている。

しかしながら、宮城県の民家の薪ストーブから1キログラム当たり5万9千ベクレルの焼却灰が発見された(2012年2月11日 朝日新聞)ように、木材に付着した放射能は焼却によって200倍に濃縮されていく。たとえそのがれきそのものの汚染が少量であっても、人が近づいてはいけないような焼却灰を生み出してしまう、焼却という行為そのものがまずは問題であろう。もし、持ち込まれてくるがれきが1キログラム当たり40ベクレル(安全基準の4割)だとしよう。それを焼却すれば、1キログラム当たり8千ベクレルの焼却灰が生まれることになる。環境省は、1キログラム当たり8千ベクレルまでの焼却灰は、その地元の一般処分場に埋め立てることを決めている。もし、この焼却灰を、厚さ5センチで寺の境内に敷き詰めたとすると、1平方メートル当たり52万ベクレルとなり、チェルノブイリで移住対象地域とされた汚染レベルに相当する。そのようなものを、地元の一般処分場に埋め立てることに頷けるのだろうか。

環境省はまた、焼却に際しては、バグフィルターによって99・9%の放射性物質を除去できると説明してきたが、今年になって「(バグフィルターの)十分なデータはなかったが、方針はすぐに出さなければならなかった」(2012年1月21日 東京新聞)と語り、住民の安全性など最初から度外視であることが明らかになった。放射性物質の除去データなど初めからないにもかかわらず、放射能汚染が宮城・岩手に及んでいる事実を確認される以前に決定していた、「がれきの広域処理」という計画だけが動き出したことになる。

震災から1年を迎えた今年の3月11日、すべてのテレビ局は東北のがれきの山をバックに、「全国のみなさん、復興に力を貸してください」と呼びかけた。私たちの「善意」がうごめいた瞬間であった。しかしながら、私たちの「善意」がまた利用されてしまうことに気づくには、時間を費やす必要はなかった。それは、あの神戸の震災で発生したがれき2千万トンのほとんどが地元処理され、その際のがれき処理費が1トン当たり2万2千円に対し、今回のがれきが1トン当たり6万3千円であることや、その予算の総額が1兆円であることを知らされれば、再び動き出した大人たちの利権の構造が透けて見えたからでもあった。先頃から問題にされた、復興予算の流用はこのがれき処理から始まっていった。

福島市のがれき処理場。焼却による広域処理が問題になっている島市のがれき処理場。焼却による広域処理が問題になっている

「放射能に汚染されたがれきの、焼却による広域処理」によってもたらされるものは、放射性物質の拡散であり、焼却場に従事する作業員と周辺住民への被曝であり、必然的に未来のいのちへの被曝である。それに反対する声は、限りあるいのちを生きるものの責任を問うものであって、今を生きるものの利権によって被曝を強要する側こそが、「我を立てる」という煩悩のあり方として指摘されねばならないものではなかろうか。そして、悲しみと怒りによって、いのちが踏みにじられる現実に眼が開かれるところにこそ、仏のはたらきがある。

3、切り棄てられていくいのち

震災の4年前、先の原子力安全委員会委員長であった班目春樹氏(当時、東京大教授)が、浜岡原発の運転停止を求めた住民による裁判に、推進側の証人として出廷した。その裁判記録には、電力会社や政府が言う数々の安全装置が、巨大地震や津波の影響によって、同時に作動できなくなる可能性を問われ、「そういうことを言っていると、設計できなくなる。ものなんて絶対つくれません。だから、どこかで割り切るんです」という彼の証言が残されている。「割り切る」という言葉は、何かを守るために何かを切り棄てるという意味である。原発を推進する中で必然的に、切り棄てられていったものは、被曝を強いられる”いのち”の存在であった。

今年の3月末現在、原発の中で被曝した労働者数は、公益財団法人放射線影響協会発行の『放影協ニュース』によると、49万人を超えた。この意味は、ヒロシマ・ナガサキの現在の被爆者が22万人であることを踏まえれば明らかであろう。原発の「安全性」も「必要性」も、そのような労働者の被曝の実態を、隠し続けることによって成り立っていた「神話」にすぎなかった。

そして、そのような被曝の実態を課題にできなかったが故に、原発震災によって広範囲の住民に被曝が強いられた。その中でも特に、子供たちの甲状腺への被曝が問題だ。昨年10月から、18歳以下の全ての福島県民36万人の甲状腺検査が実施されている。11月18日福島県の発表によると、9万5954人の内、40%の子供たちに結節(しこり)や嚢胞(袋の中が体液で充たされた異物)が確認されている。その親たちが不安を抱える中で、日本甲状腺学会(理事長=山下俊一)は会員に対し、「追加検査をしないように」という意味を持つ通達(2012年1月16日付)を出している。その結果、セカンドオピニオンすら受診できず、経過観察さえ容易でない現実が生まれている。親の不安を切り棄てていったものもまた、慚愧なき大人たちの利権と都合であり、それによって示され続ける「被曝による影響の過小評価」である。

原発こそが、「我を立てる」という煩悩が社会システムとして肥大化し、いのちを切り棄てることを本質とするものであった。

昨年11月の鹿児島での研修会で、このような被曝の現実を話させていただいた折、質疑の中で涙を流しながら語られた、中国残留孤児の方の言葉が忘れられない。

「この国は、変わったのですか?」「この国の大人たちは、子供に謝ったことがありますか?」

この言葉に、私たち仏教者は応答しなければならない。