小野常寛
天台宗普賢寺住職(東京都府中市)
18カ国160名もの参加者が集合する2年に1回のカンファレンスに参加した。インド、ダラムサラにあるダライ・ラマ法王の寺院にてご法話から始まりヒマラヤ山脈麓のDeer Parkに場所を移してカンファレンスは始まった。

私自身、初めてのインド渡航であった。インドは、「やみつきになる」か「二度と行くまい」の2つに分かれると聞いていたが、間違いなく私は前者であった。圧倒的なカオスと異世界観が私を魅了した。4,000年の歴史を持つインドの思想、哲学、宗教、学問、多様性。統一しようにもできないカオスは本来の「人間」というものを炙り出していた。デリーから飛行機で北上すること1時間超のヒマラヤ山脈の麓にダラムサラはある。ここにダライ・ラマ法王猊下の亡命政府は存在している。

ダラムサラで行われたダライ・ラマ法王猊下の法話で印象に残った言葉は下記である。
- 21世紀型の信仰ー論理と科学に支えられた信仰
- 仏教はあらゆる論理付けがされてきた
- 多様性社会における和と慈悲の必要性
- 盲信することなく懐疑主義的であれ
- 大乗と上座部という分け方ではなく、サンスクリット系とパーリ系という言語の相違で分けるべき
80歳を越えてもなお、人々に安心と教えを提供し続ける法王猊下はまさに観世音菩薩の化身であった。上記の言葉は、日本の僧侶や寺院にも大きな指針となる言葉であろう。これらの言葉を胸に、私たちはダラムサラからバスで3時間近く揺られてDeer ParkのあるBirに到着した。

Deer Parkで行われたカンファレンスでは国も、宗教も、立場も関係なく、現在の社会問題についてそれぞれの立場で議論した。貧困、男女差別、環境問題、教育格差、ウェルビーイング、ハラスメント等々。あらゆる国で、社会で、それぞれの問題は起こっている。
ただ、結局はその問題を引き起こしているのは人間自身である。人間が生活を営み、人間として生きていく以上は、欲や不平が出るのが常である。そこに色々な角度から観察、対応、実行して、繰り返していくことは、どの社会でも共通している。国内だけには気づけない視点であった。下記に、カンファレンスでの気づきを羅列していく。
外に出なければ、世界も自分も深く知ることは出来ない
人間は慣れ親しんだ場所や環境に定住し、慣れ、礼賛されることが気持ちよくなり 「外界」に出ることが億劫になってくる。 しかし、「外界」にこそ世界の広さを知る機会も、自分を客観視する場所もある。 この往来をすることが人生の深さになる。多様で未知な環境は、必ず客観性と主体性を育てる。その環境に自分をどれだけ放り込めるか。そこに自分の輪郭があるのではなかろうか。
二度と会わない「友」こそ慈悲のあらわれ
「慈悲」の「慈」の原義は、友。仲間。その会った場と時間で、出会いを大切にすることができればその人は友になりうるし、人生の大きな一部になる。「ただの他人」を友にする行為こそが慈しみである。話さなければ友にはならない。知り合わなければ友にならない。世界中の皆が友達なら、喧嘩はしても殺し合いはしない。世界が友になる。このカンファレンスで世界各国から集まった多種多様な人たちと沢山友達になれた。それだけで十分である。

多様度と調和困難度は相関するが、結果の大きさも相関する
「多様性」は目的にも成果にもならず、環境に過ぎない。単一民族、単一思想のグループを作った方がマネジメントは効率的である。しかし、多様性がある組織はそれだけの影響力のある「Something」を産み出すことも出来る。そして、それを調和させることが難しいが故に、国も組織も困っている。ダライ・ラマ法王は、その鍵は「慈悲」にあると仰った。地球の人口が70億人を超え、世界が狭くなり、情報化した現在は、多様な環境が自然にできあがる。つまり「和」こそがこれからの根底観念になりうることを示唆されている。
どの国に行っても通用して、誰でも持っている共通言語はスマイル
外国人旅行客は総じて現地の人にジロっと見られる。 そんな時に嫌な思いで終わらせない方法は唯一つ。それは笑顔。逆にはにかみ、Hi! とでも言っておけば彼らは表情を緩める。 どこへ行っても笑顔で「インド大好き!」と言えばあっちもはにかむ。笑顔は世界どこでも通用する。笑顔を磨こう。それが平和への第一歩である。
人生は平等ではない。しかし、機会は平等であるべきだ。人生というのはつくづく平等ではない。ただ、機会が平等ではないというのは本当にフェアではない。努力、学習は本人の意志とやる気次第であるが、その機会すらない不平等は直ちに是正すべきだ。インドの貧困層を見ると、赤ん坊の時から「稼げない」商売を手伝わされ、物乞いする子どもたちが沢山いる。識字率も75%程度。圧倒的な格差。ニューデリーとオールドデリーの生活の差に驚く。普通の子供が教育を受けている時にも、親の労働力として使われる。そして、識字も出来ないため不正や非行に陥り、負のサイクルは長期的に続く。機会のフェアネスだけは担保する社会にしなければいけない。それが人である権利であろう。

「日本は恵まれていて幸せだ。」は本当か?
日本はインドよりもインフラも社会保障も遥かに整っている。 確かに、「日本は恵まれている」 日本の終戦後の猛烈な経済発展中は、インドのような混沌の時代もあったのだろう。それを先人達は理想郷を追い求め、必死に作り上げたはずだ。 その結果、現代では全てが整いすぎて社会も硬直化している。 インドにある混沌は多くの変化をもたらし、人間にもその即応を否応なしにつきつける。 そんな中に真理に至る哲学者や学者が生まれ、揺れ動きながら文明が育っていったということを考えると 生きるのに精一杯なインドの人々の方が恵まれているとも言えるかもしれない。 日本は恵まれているのか。尺度は何なのか。
「和を以て尊しと為す」は、日本だけの美徳ではない
神仏習合が長かった日本の宗教観は、世界に誇れる「和」を基幹としたユニークなものだと思っていた。 しかし、インドに行けばとっくの昔に「和」を基調とした文化があることを肌実感として感じる。 日本の本地垂迹的な考えはヒンドゥー教が、逆に仏教に適用しており、ブッダはヒンドゥー教では神の化身にあたる。タージマハルのタージ妃はシーア派で大王のシャー・ジャハーンはスンナ派であり、その母はキリスト教徒。国は、宗教共々揺れ動きながらも、大陸において和を実現しようと何度もトライしていた文化が染み渡っていた。その精神が日本に来て花を開かせたのだ。これを忘れてはならない。
慈悲とは呼吸と同じ。他人だけではなくて、自分にも
社会起業家やNGO、利他を前面に押し出して奮闘する人は脚光を浴びるし社会からの期待も高い。しかし、燃え尽きたり、心身ともに疲弊してしまうケースをよく見る。実業家であれば、収益という視覚化できるものが心身を癒やしてくれるだろうが社会問題をテーマにした活動家は、より受け入れがたい現実に直視しなければならず息を吐きっぱなしになって窒息してしまう。そんな方々には、自分もまた慈しみの対象であるということの認識を。息を沢山長く吸えば吸うだけ、沢山長く吐ける。吐いて、吸って、の繰り返し。それが人生。

僧侶はモデル。人間としての生き方のモデルになれるかどうか
上座部の沢山の僧侶たちと仲良くなった。 私達と違い、厳格な戒を生きている彼らもまた、情報化社会に適応している。今までの隔絶された特権階級からの脱皮が課題であり、懸命に動いている。親しい存在になろうとして。 日本の僧侶はほとんど俗人と変わらない。(婚姻、飲酒、肉食etc.)だからこその等身大の理想像となれる。 僧侶自身が幸せで、素敵な人間になって、あんな人間になりたいな、という生きたモデルになることが出来る。 その生き方こそが、仏法の検証にもなりうるし、根拠にもなりうる。 崇拝・尊敬の対象としてではなく、親近感のある頼りがいのある人、そんな存在になりたい。
何をしているんだ。何ができるんだ。何をしたいんだ。なんなんだ。の繰り返し
努力を怠らず、影響力のある人達が世界には沢山いて、そういう人たちと会うたびに内省が始まる。 そして、命と有り難さと恩恵を感じると共に自分の無力さを嘆く。 沢山の人たちの教えや思いや期待を背負っているにも関わらず、何も出来ていない自分を嘆く。 そして、コップから溢れるほどの容量になったインプットは自分のコップである人生を見つめ直す。 CAN,DO,WANT。小さすぎて自己嫌悪につながる。そして意欲が再燃する。 自己否定と自己建築の繰り返し。修行も同じかもしれない。
ロジックと哲学と科学を合わせたものが仏教の信仰。21世紀の信仰。常にWhyを考えろ。

ダライ・ラマ法王の法話で一番響いたものがこれである。そして、常に勉強しろ、と。宗教と信仰は不分離なものであろう。しかし、仏教において盲信は許されない。西洋で仏教人口が徐々に増えている理由もここにある。仏教は釈尊が悟り、語った話を基に、幾多の先人たちがそれを理由付け、論理付け、根拠付け、創作してきた。その伝統こそが仏教を仏教としてたらしめているものであろう。絶対他力的な信仰も、その根拠を見出そうとする行為自体が正しく仏教であろう。そして、たまにその絶対さも必要とするのが人間。現代社会、現代の苦しみ、現代の生き方、に合致した仏法を。変えずに変えながら。深く、果てしない。
英語が出来るだけで、これだけ世界が広がる
改めて英語が出来るだけで人生は変わり、最高に楽しくなる、と確信する。 日本だけにいて、日本人とだけ生活するならば英語は必要ないかもしれないが 英語が世界言語となっている現代で、この共通ツールがあれば情報量が飛躍的に伸びる。 他国で英語を学んできた人ともコミュニケーション出来ることは至上の喜びに変わる。 コミュニケーションこそが相互理解の第一歩である。 不十分ではあるが、英語が出来て本当によかった、とつくづく思う。
Life sometimes sucks, but it is still beautiful.
生きていると、「なんじゃこりゃ!」という瞬間や時間が確かに沢山あるが やはり、それでも人生は美しい。そしてその美しさを忘れなければ 泥沼の時だろうと、憎悪に包み込まれたとしても、美しい世界が眼前に待っている。 自分の心に花を咲かせ、その美しさを自分で愛でて、人と分かち合うこと。 だから人生は美しい。
雑多な気付きであるが、INEBのカンファレンスでは日本だけにいては決して気づけないことを知り、アクションに取り組んでいる仲間(サンガ)に出会える。
この幸せは、何にも代えられない。改めて、関係各位に感謝を述べたい。
