2017(平成29)年11月6日(月)~11月10日(金)
一般情報:
場 所 : 孝道教団(11月6日~8日)浄土真宗本願寺派伝道院(11月9日)龍谷大学響都ホール(11月10日)
参加者 : 関東大会(6~8日)- 61名; 関西大会<活動報告>(9日) - 50名; <シンポジウム>(10日) - 約150名
※招聘者の名簿は別紙参照。
開催団体:<関東大会>
主催: 孝道教団・国際仏教交流センター(IBEC)
共催: 浄土真宗本願寺派総合研究所、Japan Network of Engaged Buddhists (JNEB)、龍谷大学アジア仏教文化研究センター、曹洞宗総合研究センター、臨床仏教研究所、大正大学地域構想研究所・BSR 推進センター、自死・自殺に向き合う僧侶の会
後援: 公益財団法人全日本仏教会
<関西大会>
主催: 浄土真宗本願寺派総合研究所、龍谷大学世界仏教文化研 究センター・アジア仏教文化研究センター
共催: 孝道教団・国際仏教交流センター(IBEC)、曹洞宗総合研究センター、教団附置研究所懇話会自死部会、自死に向きあう関西僧侶の会、NPO法人京都自死・自殺相談センター
後援: 公益財団法人全日本仏教会
関東大会@孝道教団(横浜市)
2017年11月6-8日
主催者挨拶(関東大会)岡野正純(孝道教団統理/国際仏教交流センター代表)
孝道教団では2007年に自死・自殺にまつわるシンポジウムを開催。最初期は全国を見渡してもまだ極わずかであったが、ここ10年ぐらいで自殺の問題に関わる宗教者が増えた。世界の各国で国民の幸福度が下がっている。東南アジアでは自殺死亡率が上がってきているといわれる。急激な社会の変化や経済的な問題など、複雑に社会の問題が関わっている。今回は世界の宗教者が交流し知見を広げることを目指す。様々な対策により全体の自殺者数は下がり続けている。中高年の自殺死亡率が大きく下がった。しかし、若年層、10代〜30代の死因の第一は自殺である。自殺の原因を考えると、経済のグローバル化が国内の経済問題に大きな影響を与えていることは否定できない。近代化によって地域社会の構造は大きく変化した。特に、家族のスタイルの変化は顕著。核家族は外向きの傾向が強く、大家族は内向きの傾向が強い。核家族によって孤立化が進む。
しかし、経済的な問題だけで自殺の原因を探るのには限界がある。根源的な苦悩に目を向けることも必要。仏教では、自らつくりだす苦悩を煩悩という。煩悩は、人間がつかう言語や概念に大きな原因がある。言語によって思考を抽象化、バーチャル化することができる。それは、希望を生み出し、創造性を高めることができる。一方で未来に対する不安であったり、自己嫌悪、自己疎外などの過剰な苦しみをつくりだすこともある。
仏教は自分の思考や感情との健全な付き合い方を教えている。いま世界各国で流行っているマインドフルネス瞑想は精神疾患に効果があるといわれる。マインドフルネス瞑想は、仏教の禅定に強い影響を受けている。しかし、マインドフルネス瞑想と仏教の禅定とは、目的が大きく異なる。いくら仏教の要素を取り入れていても、その目的がビジネスや競争社会での強者を目指すものである以上、それを仏教的とはいえない。仏教の禅定の目的は、智慧と慈悲を獲得すること。智慧とは、ものごとのありのままを知ること、慈悲とは、ありのままも観ること。この仏教の視点は、人間の根源的な苦悩を見つめることに対して大きな意義がある。それは自殺の問題を捉える面でも、とても有効である。
自殺対策はセクターを越えた連携が必須。しかし日本では、そのチームのなかに宗教は入っていけない。間違った政教分離の解釈が使われている。宗教教団は、対人支援に高いモチベーションをもっている人材を有している。地域との連携を果たしうるファシリテーターの役割も担える、自殺対策に役立つ重要な資源を有している。韓国や台湾では、政府の委託を受けて、宗教教団が自殺対策の活動を行う。政府と宗教間の連携が密接に行われ、重要な活動を生んでいる。地方自治体は宗教教団の資源を活用することをもっと積極的に考えなおした方が良いのではないか。
全体の日本から発表
全体の外国から発表
全体会・振り返り(3日目)
※以下に、全体会で出た意見を列挙する。
▼人生の大きな変化はストレスになる。大きな変化を受け入れていくプロセスは、大きなストレスが生じる。例えば、結婚も大きなストレスになりうる。
▼いくつかのマイナスなライフイベントが同時に起こると、自死念慮を抱える大きな要因になる。日本では何らかの4つの要因が同時期に重なると危機的な状況になるといわれる。
▼危機的な状況にある人の苦悩に気づき、専門職につなぐ。あるいは、見守るという視点も必要。一方で、その人の思考のクセを変化させることもできるかもしれない。経済的、いじめ、人間関係、仕事、薬物療法などの対処療法だけでは限界がある。精神的な価値観の転換。自分自身を信じる力を養う、これまでの枠組みを外すなどに、仏教の教えは寄与できるかもしれない。
▼ソマティック(身体的)なアプローチによって感情の方向性を変える。感情や思考が絡まっていてもソマティックな認知によって解きほぐされる。絡まっている部分が整理されて、問題が明確になる。身体性にアプローチする仏教の概念は役に立つ。
▼禅宗は一日一日の信仰生活においてこころとからだを整える。禅宗の生き方は苦悩の世の中を生き抜くヒントになる。
▼現実と感情が乖離することによって、人々が絶望的になり自殺にいたる大きな要因になる。感情は常に我々のなかにある。その感情を見つめることができれば、過度に追い込まれることがなくなるのかもしれない。苦難を見つめ受け止める。思考や認知の部分は科学的・合理的に捉えることができるが、感情の部分はとても難しい。トランスパーソナル心理学のアプローチは、感情を見つめることに役に立つ。
▼自殺念慮を抱える人は、仏教的な悟りに近いところにあるともいえるのではないか。例えば、肉体的な痛みによって、もうこれ以上なにもできない生きる希望さえ失っている状態にあると、心も弱り果て、生きることをあきらめる。自殺念慮者は生をあきらめる。それは無我の境地の近くにいるのかもしれない。無我の境地を仏教徒は光だと捉える。暗闇の道は、光を浴びるための道だ、と捉えることもできるかもしれない。
▼日本の場合は、自殺念慮を抱える背景にはスティグマ(ネガティブな意味のレッテル)が大きい。苦悩する人は、弱い人、負け犬。苦悩は、よりよく生きる上で大切なことという仏教徒の姿勢。だからこそ、苦しんで良いんだよという視点を提供できるのではないか。対人支援的な方法もあるけれど、価値観の転換を促すことができるのではないか。
▼オランダの研究に、筋肉一つ一つを分析してそこに感情に関連する細胞があるといものがあった。例えば、子どもを亡くした悲しみに打ちひしがれている人を支援するさいに、肉体的・身体的にサポートしてあげることによって、精神的な苦悩を和らげることができる。エンボディメントともいわれる。人間を身体全体に捉える。
▼自殺しようとする人を恐れてはいけない。こちらが安心・安定した平静な態度に在ることによって、自殺したい人も落ち着くことがある。
▼目の前にいる苦悩している人は、何を感じているのか。悲しいというときに、どのような背景があり、その心情を抱いているのか。本当に伝えようとしていることを受けとめる。
▼遺族が抱える、亡くなった大切な方はいまどうなっているのか、という疑問。死後が極楽浄土、幸せな安心の世界に生まれているという宗教的思想は、その人の救いになる。生きている間は、苦しんで、苦しんで、苦しんでいた。死することによって落ち着いたんじゃないか、という遺族の思い。死があるということによって、それまで頑張って生きることができる。
▼死と生を分断して考えない。生死。死にたい気持ちを抱え苦しんでいる人に対して、生と死を二項対立で考えることは正しいことなのか。自殺はダメだ、死はダメなんだという視点は本当に仏教的な視点なのか。死を否定的にとらえない視点は、苦悩する人の支えになる可能性があるのではないか。
▼人間であることは大きな限られた営みであり、大きな恵みである。近代化された社会にあっては、よりよい教育を受けて、成功者になることを強調する。子どもたちに、精神的な面、文化を教えることは少ない。小さい頃から、仏教的な視点を教える必要がある。それは、自殺に関連するような苦悩を減らしていくことにもつながる。人生の危機に陥ったとき、支えとなる価値観がなければ死をむかえざるをえない。子どもたちにいのちの価値を伝える必要がある。人間として生まれることは貴重な機会、大きな恵みである。
▼サイコセラピー・心理療法は時代とともに大きく変化している。90年代から新しいパラダイムがでてきた。コンピューターの発展が心理学の発展にも寄与した。脳がみえるようになった。サイエンティスト、科学万能主義も変化した。著名な学者は東洋の思想に関心をもつようになった。人間のこころやからだの理解に変化をあたえた。こころとからだは不可分。東洋的な視点に関心をもつようになった。
▼トランスパーソナル心理学は、仏教がもっと一般に届きやすいようにする助けになりうる。仏教者は自分の体験をそこに注入する。
▼仏教では、そもそも人間は苦悩をもつ存在だとみる。本質的に苦悩をもつ存在である。ついつい我々は社会的な視点からものごとを捉えてしまいがちだが、仏教的に考えると人間の心情にフォーカスしていく必要がある。
▼人間性を保つためには、内なる生活が大切。仏教は心理学を通じて欧米にも広がっている。
▼ミクロ的な視点、マクロ的な視点の両輪で考える必要がある。私は、個人が連なって社会をつくる視点で捉える。個々のレベルでは、社会的な構造に力が及ばないと考えてしまいがち。しかし、自分に何ができるのか、ということを考え続けないといけない。個々の判断や価値基準で、社会構造を変化させることができる。仏教的な視点は公共のレベルでインパクトを与えていくことができる可能性があると私は信じている。仏教の実践やマインドフルネスは、公共的な教育に変化を与えることができるのではないか。
▼自己制御、自分の感情をコントロールする力。絶望する人に対して、どのようにアプローチすることができるか。マインドフルネスはその分野で役に立つ。状況に応じて、自由な考え方ができるようになることを助ける。自分のなかだけで考えて思考をするのではなくて、仏教に沿った思考のスタイルを実践する。問題を整理し、思考のサイクルがよくなる。
▼つながりがあるんだと伝えたい。人と人との関係性をいかにつくるか。多くつながれば良いというのではなく、ほどよい距離感で、質の良いつながりを作ることができるのか。自殺願望者は孤独なケースが多い。良い関係をいかに構築できるか。自分一人だけじゃないという意識。導き手、善知識としての宗教者の役割がある。
▼自分は意味のある存在なんだと認識することが大切。ブッダは危機を悟りのプロセスにかえた。絶望も、よりよい人生の機会と捉える。自分の外から与えられるものではなくて、個人の内面からわきおこるものでなければならない。
▼ブータンは近代化が進み、徐々に相互扶助の文化がなくなっている。経済的な成長で、社会構造が変化している。若者はアメリカやヨーロッパを目指し、競争社会のうねりを感じる。家族よりも個人化している。あらためて、家族、共同体、コミュニティの視点にも目を向ける必要があるのではないか。
▼日本の宗教者の話をきいていると、対処療法的な視点が強いように感じる。社会を変えるという視点を諦めている感覚があるのではないか。危機的な状況にたいして緊急対応している事例が多い。一人ひとりを救うには無理がある。自殺の根本的な原因から改善していく必要があるのではないか。
▼仏教者だけで関わる、という偏った視点の危うさが生まれる可能性がある。ソーシャルワーカーや精神科医やカウンセラーなどと、協力しあうことも大切。仏教だけで抱え込むというのではなくて、他の職種と交わっていく。我々が単独で解決する必要はない。他の専門職との協働が重要。
▼僧侶が教育を受けずに個人的な方法で行うのは危険。カウンセリングなどを学び、ある程度多職種との共通の意識をつくる。その学びによって各僧侶の力が向上していく。
▼同じ思いをもったサンガ(集団)をつくる。宗教者・聖職者だけで活動すると持続性がない。燃え尽きてしまう。他の専門職と連携して持続性を高めていく。テクニックという視点で心理的な視点を取り入れる。サンガの理念や目的については、仏教の思想によって磨きあげる。
▼仏陀がどのように教育を行なったのか。これをしろ、あれをしろとは一言もいっていない。先ず、問答を行う。そして、問いをつくる。さらに、宿題を与える。最後に、良いタイミングで教えを伝える。
▼自殺の問題は、社会の闇を知る要因になる。自殺は、疎外感、職場の稼働な労働、いじめ、家族の問題、孤独、LGBTなどなど、複雑で多様な問題をはらんでいる。自殺の問題に関わることによって、社会の苦悩を知ることにつながる。社会に対して、これは正しくないんだ、違う在り方があることを知らせていく必要がある。宗教者が世俗にはとらわれない価値観を発信する。宗教がもつリソースを役立たすことができれば、社会の変化を促すことにもつながる。狭い意味での自殺予防にとどまってはいけない。
▼日本ではお坊さんが病院に入るのは嫌がられる。しかし、葬儀や死者儀礼には関わることができる。そこに関わり続けることで、日本の僧侶に何ができるのか。いま与えられている他の役割をするのではなくて、与えられた役割のなかでする。
▼僧侶が社会的な問題に関わるエネルギーを、与楽抜苦に求めたい。菩薩道を歩む。目の前に苦しんでいる人がいるのであれば、そこに関わっていく。菩薩道を歩むという、単なる社会活動ではなく宗教活動だからこそ関わり続ける。自分自身がお坊さんになっていくための道。僧侶の本務に立ち返る。
▼自死・自殺に向きあう僧侶の会が開催する、自死遺族の分かち合いの会は、決して仏教の教えを伝えることがメインではない。安心安全な場をつくることが目的。しかし、会場はお寺を使うため、そこには仏さまがいる。短いお勤めや法話がある。宗教的な色合いは強いが、だからこそ安心してもらえる世界観がある。
▼自殺対策の活動を始める前にカウンセリングを勉強する僧侶は2割ぐらい。はじめた後に、カウンセリングを勉強する僧侶は8割ぐらい。僧侶としての問題意識をもつようになる。
▼突然死にたいと相談されると誰でも困惑する。あるいは、宗教に対する怒りをぶつけられるとショックをうける。だからこそ、トレーニングをする。トレーニングをすることによって、できるだけ「初めて」をなくす。
▼トレーニングは何のためにするのか。目的がはっきりしておかないと違った意味になる。目の前の自殺にまつわる苦しみを抱える人の、その苦悩を和らげるためにトレーニングをする。ロールプレイを通して、自分自身の気づきを積み重ねる。どのようにかかわられると心地が良いのかという感覚を身につける。
▼仏教ってすごいなと気付かされることが多い。苦しみの処方は、もうすでにお釈迦さまがやっていたことだと気づかされる。お釈迦さまのこの態度は、こんな意味があったんだと活動を通して気づかされる。自灯明法灯明。どこまでも仏教の教えを基準としながら、トレーニングを積んで、変化することを恐れずに前に進む。軸が仏教にあるからこそ、変化を恐れないことができる。
関西大会@浄土真宗本願寺派伝道院(京都市)
2017年11月9日
開会の挨拶(関西大会)藤丸智雄(浄土真宗本願寺派総合研究所)
この伝道院という建物は、もともと浄土真宗の信者さんを対象とした生命保険の会社があったもの。信者さんのいのちを支え合う想いが結実したもの。皆さんとともに、このような場所で、いのちに向きあうイベントを開催されることを感慨深く思う。
全体の日本から発表
全体の外国から発表
仏教と自殺に関する国際シンポジウム@龍谷大学響都ホール
2017年11月10日
基調講演 「仏教と自死・自殺」佐々木閑(花園大学)
京都にある禅の大学、花園大学でインド仏教を教える。専門はインドの戒律。戒律は僧侶の生活をきめる法律。人の死に関する事項もある。2500年前の仏教を研究しているが、その知見をもとに、現代の仏教にどう活かすか、その知見を活かして何ができるのかが関心事でもあり、重要であると考えている。自死の問題はとても密接に関わる。コラムなどで仏教と自殺のことを書くと様々な手紙が寄せられる。大方は大切な人を自死で亡くした遺族から。普段の生活のなかでも、道をすれ違う人のなかに、心に傷を負う人はたくさん居る。
自死・自殺を語るとき、その場に自殺でいのちを落とした人、死んだ人がいることを思う必要がある。釈迦は、人は全て平等と説いた。インドは元々カースト制のもと差別されていた。仏教は生まれで人を差別しない。釈迦が言っていることは、人はみな生まれながらに苦しみを背負っている。その点で平等。普通は生きている人は平等だと考えてしまうが、いつ死んで、どう死ぬかは、単なる偶然のもの。生きている人も、死んでいる人も平等。亡くなった人は、言葉を発することができない状態だけれども、その議論に参加している。亡くなった人のことは何をいっても良いんだ、というのは釈迦の教えに反する。死んでいる人は、生きている人に自分の思いを伝えることができないというハンディを背負っている。だからこそ、死んでいる人もその議論に参加しているんだ、というつもりで語るべきだと思っている。さらに、そこに座っている人は、どんな顔で座っているのかを想像する。自殺で亡くなった人は暗い顔をしているだろうと思ってしまいがちだが、それは生き残った人の傲慢。どんな顔をしているかは分からない。人によっては、自殺で亡くなったことによって、この世の苦しみから解放されたと幸せを感じているかもしれない。亡くなった人の顔をこっちが判断、ジャッジしてはいけない。生きている人も様々な気持ちで生活しているように、死んだ人も様々な気持ちで死んでいった。
自殺にまつわる世間の画一的なイメージは残念に思っている。自殺で亡くなった人は弱い人、罪だ、おかしい人だという声が残念。それは生きている我々が勝手に決めつけている。世俗で欲望にまみれて生きている我々の方が、仏教的な人としては成熟していないのかもしれない。
結論、一番古い仏教経典、最初期の経典に、自殺が罪悪、犯罪、いけないことであるという記述はない。その後の時代の変化のなかで、自殺が悪いという記述はあるものの、最初期の経典にそのような記述はない。
釈迦がつくった仏教という宗教の世界観は、一切皆苦、全てが苦しみ。生きていることも苦しみ、生きたいという思いも苦しみ。生老病死。一方で、日常生活のなかでは楽しいこともたくさんある。一週間後に温泉にいくと想像するのは楽しいこと。しかし、寿命は一週間縮まっている。一番大事であろういのちの問題は置き去りにして、二番目に大切な温泉を楽しみにしている。ただそれはしょうがないこと。人間は忘れることによって、苦しみを紛らわす。一番大事なことを忘れるように、脳がはたらいている。そうすることによって生きている。歳を重ねたり、大きな震災があると、忘れるという機能が落ちる。家族が自殺した遺族は、一週間後に温泉にいくという楽しみは何の意味ももたない。釈迦がいう苦しみは、そういう根源的な苦悩。どのようなものによっても償うことができない、補うことができない苦しみ。それを逃れるために何ができるのかということを求めたのが釈迦。苦しみの原因を、外側の現象に捉えると、決して無くならない。外側の現象を受け止める、受け止め方を変えることによって苦悩を解決させる。自分自身を変えることでしか苦悩はなくならない。集中した精神を用いて、内なるものを変える必要がある。厳しい修行を何年も重ねて、それを体得していく。しかし、それは私たちにできない。何年もかかるのだとすると、釈迦のもとにあれだけの弟子は集まらなかっただろう。修行は大変なのではなくて、安堵・安楽がある。ゴールだけが幸せなのではなくて、そのプロセスも幸せ。一つ一つの苦しみが消えていく、その体験が幸せであったはず。だからこそ、釈迦の周りには人が集まった。自分の内なるものを変えるときに、初めて外からの現象を打ち消すことができる。私が知っている苦悩を解決する方法を教えるから一緒に暮らしましょう。釈迦の体験を追体験する、弟子たちの集団ができた。それを仏教ではサンガという。生きることが苦しい、どうにかしてそこから抜け出したい、幸せな生活をおくりたい。あなたが、俗世で辛いのならば、私のもとで一緒に修行に励みましょう。そういう釈迦、サンガのメッセージによって、苦悩する人が集まってくる。この世にサンガがなかったら自殺するしかない。サンガという組織があるからこそ、俗世で生きづらい、生きていけない仲間と一緒に生きることができる。釈迦というリーダーがいて、釈迦が亡くなったら仏教という教えが基軸になる。自殺するかもしれない人を救ってきたのが、仏教のサンガ。サンガがなかったら、幾らの人が自殺してきただろうか。サンガが苦悩する人を救ってきた功績は計り知れない。
毎年、タイの仏教サンガにコミットして、短期であるが生活をともにする。そこには何かしらの苦悩を抱えている人が集まっている。日本人もきている。サンガは死ぬべき人を生かしている。仏教に何ができるのですか、という質問に、死ぬ人を生かすことができますと答えている。
この世で一番長く続いている集団は仏教のサンガであり、一番長い法律も仏教の戒律。
仏教経典によく出てくる話がある。お金持ちの家がある、何でも自分の好きなものが買える、何だって自分の思うようになる。その家の息子が、お金があったり、人からうらやましがられたりすることに幸せを感じられない。仏教のサンガに入りたいと親に申し出る。当然、親から怒られる。おまえの務めは家を継ぐこと。しかし息子は、親の生活は幸せではないと考えている。それでも親は駄目だという。サンガには親の許可がないものを出家させることはできない、という戒律がある。そこで息子はどうするか、ハンガーストライキをおこす、食事をたべない。出家させてくれないと、ご飯をたべない。徐々に身体はやせ細り、みるみる顔色が悪くなる。親がどう考えるのか。このまま息子が死んでしまうのと、出家させるのと、どっちが良いだろうと考える。死ぬぐらいなら出家させる。死なせることの代案として出家させる。経典によくでてくるパターン。仏道に生きるということは自殺の代案ともいえる。したがって、仏教は自殺を止める力がある。
日本では苦悩する人の人生を丸ごと受け入れてくれるような仏教教団、サンガがない。自殺しそうな人、ご遺族、苦悩する人をまるごと受け入れる組織をつくって欲しいというのが私の願い。
大栗博司さん(カリフォルニア工科大学)との対談。物理学者と仏教者の対談。佐々木先生、人生に生きる意味はあるんですか?仏教ではどう考えるんですか?という質問をうける。仏教では言いません。物理学も同じ。人生に生きる意味はないというのが物理学、仏教。この質問の意図は、私が生まれた意味を誰かが指定しているんですか、という問い。仏教で考えれば、私たちを作った人はいない。阿弥陀仏、釈迦が私を作ったわけではない。輪廻のなかでたまたま生まれてきた。だからこそ、悩み苦しみ人生を生きなければならない。あなたの生きる意味はこれですよ、と指定されていない。一神教だと、アラーが生きろ、アラーの教えをひろめよとなる。生きる意味は最初から誰かが与えてくれるわけではない。自分で見つけていくしかない。だから自殺することに、負い目を感じる必要はない。
仏教における悪と善。仏教で先天的、最初から善悪が定められているわけではない。基準はない。仏教の善悪は二階層ある。世俗的な意味での悪。この行ないによって将来的に心身の苦しみを生むのが悪。嘘をつく、物を盗む。それによって刑務所に入るなど、世俗的な苦しみ。あたりまえ。次は、涅槃をめざす立場。その階層からすると、仏道修行によって輪廻から離れるという意味で、涅槃を妨げる行為は全て悪。仏道修行の邪魔になるのは全て悪。仏教では二段階構造の善悪論。
自殺は悪なのか。先ず、自殺は世俗的な意味で悪ではない。いままさにしんどい状態であることに間違いはないが死んだ後に不幸になることはない。誰かに生きる意味を与えられているわけではないので、生きる意味に対して負い目を感じる必要はない。自殺は、悟りの道を邪魔することにつながらないので悪ではない。しかし、もったいない。せっかく釈迦の教えを乞うチャンスが有ったのにもったいない。惜しい。どちらの階層でみても、仏教的に自殺は悪ではない。自殺する人は悪でもなければ、弱くもない、愚かでもない。
仏教が自殺に対処する方法。宗教者が自殺防止に関わる活動が増えていることは嬉しい。一つに、僧侶が自殺志願者の苦悩を聴く。僧侶という肩書きに意味がある。僧侶というだけで聞いてくれる。その特権を大いに利用する。聴く力のない僧侶が聴いても意味がない。二つに、僧侶が死生観を語る。しかし独りよがりな応答は、相談者の想いとズレる可能性がある。一方で、上手におこなうことができれば、生きる苦しみから脱出する可能性がある。釈迦がやってきたことを現代の僧侶がする。阿含経には、出家という生き方があるというアドバイスもある。あるいは、阿弥陀の極楽浄土があるんだから今を大切に生きれば良いと、伝えることもときには有用かもしれない。だけど、ここで大切なのは僧侶の資質。本当に信じているのか。三つに、教団がその人の苦悩を引き受ける。仏教教団が一丸となって、苦悩する人をまるごと引き受ける。ある意味、オウム真理教はこれをやった。苦悩する人、出家したい人を受け入れた。多くの自殺志願者を救っていたのも事実。麻原に、その人を助けたいという純粋な思いがあったとしたら人助けの教団になれた。しかし、皆さんご存知の通り、麻原が自分の私利私欲を第一にする邪悪な人だった。
インターネットの普及によって、新たな形での自殺志願者が増えると思われる。仏教では業・カルマを大切にする。カルマの原理は3つ。一つに、人がやった良いこと悪いことの記録は残る。その報いが必ずある。二つに、結果がいつ起こるかは分からない。原因と結果の時間差は分からない、どれぐらい間があくかは分からない。三つに、結果と原因に類似性はない。泥棒をやったから地獄におちる。このようなカルマの思想は空想に思える、科学の時代では空想でしかない。しかし、いまインターネットを通してカルマの原理が体感される。インターネットを通して私たちの言動・行為は全て記憶される。喋った内容や姿形が残る。ドライブレコーダーはこれからウォーキングレコーダーにかわるといわれる。さらにIOTによって、電気や冷蔵庫に認識機能がつく。使っている人に一番便利なモノやコトを機械がチョイスする。言動行為が全て記憶され、全てネットで管理される。その情報が断片的なことは問題ないが、悪意のある人やAIがその情報をまとめ、自分の情報が全てネットで発信されることも想定される。悪意の人や敵対する人に使われる、どんな結果になるか想像もできない。カルマの原理、記憶される報いがある。時間差がある。原因と結果に類似性はない。ネットカルマ。お釈迦の業より、よっぽど怖い。ネット業は何度も起こる。親のやった行為が子どもにも影響を及ぼす。釈迦は親の因果は子に及ばないといったが、ネット業は、世代間も超える。結婚しようとしても、あなたのおじいさんはこんなことをしたんですねと分かる。先祖の行ないが全て分かる。差別性の強い、時代が訪れる。閉塞感の時代。いまでは考えられないようなストレスも生まれる。そんな時代がもうすぐ訪れる。自殺志願者の増加もおこるだろう。インターネットの発達は自殺の要因も増やした。
ネット自殺の解決を誰が担うのか。業の問題に向き合ってきた仏教の思考は役立つかもしれない。ネットの情報は消えない、外側の情報を消そうとしても消えない。その苦悩から抜け出すとするならば、ものの受けとり方を変える必要がある。そのお手伝いができるのは仏教。仏教は2500年間それをやってきた。業の力から開放される方法を積み重ねてきたのが釈迦の教え。
律蔵、仏教の法律。法律からみると、仏教で自殺は悪なのか。仏教で人を殺してはいけないという法律があるが、それには重要な物語がある。この世は一切皆苦、苦しいんだという教えによって、みずから死んだり、人を殺したり、人に殺してもらったりする事件がおきた。律蔵のなかでは、他人を殺すことは罪という文脈はあるが、自分で自分を殺すことについての言及はない。あるいは、身投げは悪だという項目もあるが、これは単に飛び降りるなといっているだけ。飛び降りると下の人が危険だから、飛び降りの禁止なだけ。しかしその後、500年、1000年という時代が経過すると、自殺は犯罪行為だと説かれるようになる。釈迦の時代の教えとは食い違っている。書かれたものがいつの時代なのか、どのような背景で書かれていることを理解する必要がある。もともと自殺は悪と書かれていたわけではない。自殺はあくまでも、釈迦の教えにであうチャンスを無くしてしまう、もったいないこと。
自殺を論じ合うときは、そこに自殺でいのちを落とした人がいることを肝に命じてほしい。
提言・対談
▼岡野正純(孝道教団統理/国際仏教交流センター代表)
このシンポジウムが開催されることになったのは、もう10数年間に渡って、仏教各宗派教団が垣根を越えて連携をとってきたことが一つ実を結んだ形。宗教者の自殺の取組といえども、教団の取組もあるし、個人的な取組もある。仏教界の連携が深まっていることを実感している。
発展途上国では保健衛生の問題、貧困の問題が話題にのぼるが、先進国では幸福度が下がっていることが指摘される。アジアのなかでも自死が急増している地域がある。日本ではここ10年、全国各所で宗教者、僧侶による自殺対策に関わる活動が起こっている。このシンポジウムを通して各国の状況について知り、それぞれの活動発表を通して、相互理解を深めるとともに、新たな可能性を模索する機会になればと願う。
自殺の問題は様々な要因が複雑に絡み合っていることが指摘されるが、相変わらず社会経済的な影響も強い。しかし、問題の原因を社会経済にだけ求めるのは大変危険で、複雑にからみあった問題。佐々木先生の基調講演の通り、外からの刺激・現象は変えられない。それらの現象をいかに受け止めるか。その方法としてマインドフルネスが流行っている。精神疾患への有用性がいわれる。仏教の禅定にルーツがあるといわれるが、ストレス軽減を目的にするマインドフルネスは仏教の禅定とは目的が違う。いくら仏教の良さを取り入れたとしても、目的が違う以上、仏教的とはいえない。仏教の禅定は智慧と慈悲の獲得。仏教の智慧はありのままをみること、慈悲はありのままを受け入れること。その仏教の営みは、自殺念慮の軽減、生きづらさを感じる人たちの苦悩を和らげる助けになると信じている。
▼小川有閑(浄土宗/自死・自殺に向きあう僧侶の会)
関東での発表を通して感じたことは、立場の違いがあるなかで、それぞれがどのように協働できるのか。今回のシンポジウムは、日本からは自殺の問題に取り組む宗教者が集まった。海外の方は、仏教徒の精神科医や医療従事者、カウンセラーの方が多かった。もちろん、海外の僧侶の方もいらしたが、関東での発表者は医療系の方が多かった。医療のお仕事に関わる方の話を伺っていると、医療の分野でいかに仏教を活用できるか、という視点が強かったように思う。日本の特徴は宗教者ならではの活動が目立った。例えば、自死遺族への追悼法要や、お寺を活用した遺族の分かちあいの開催。あるいは、葬儀や法事のなかで、いかにグリーフサポートができるのか。宗教者ならではの取り組み。それは一方で、宗教者独自の取り組みが強く、外部との連携は少ない印象。海外の方は、仏教徒という強い信仰をもちながら、それぞれ医療や心理学のなかで、いかに仏教のメソッドや思考方法を取り入れることができるのか。もしまたこのようなシンポジウムが開催されるのであれば、そのときは日本でも宗教者として精神科医として活躍する人、医療現場やカウンセリングに携わる人からの発表をおこなっていきたい。
▼野呂靖(浄土真宗本願寺派/龍谷大学)
今回のシンポジウムを通して、またこれまで携わってきた活動を通して、改めて自殺の問題に関わるなかで重要だと思うことが二点。一つ目は、自殺のスティグマの問題、偏見。自殺する人は弱い人、いのちを粗末にした人という考えが根強くある。死にたい思いを抱える人は、様々な危機的な出来事が重なり、どうしようもなくなって、「死にたい」という思いを抱えている。そして場合によっては、自殺する。自殺する人は、いのちについて考えていないと言われたりするが、決してそんなことはない。いのちのありように苦悩し続けている。私たちの方がいのちのありようについて考えていないようにも感じる。仏教は生死一如、コインの裏表。仏教でいう死因は生まれてきたこと。生きているから死ぬ、ただそれだけのこと。病死であろうが、事故死であろうが、自死であろうが、死というものを遠ざけたり、タブー視するのはナンセンス。二つ目に、どのように死にたい苦悩を抱える方を支えるのか。電話相談をするなかで、「生きている意味を感じられない」ということをよく聞いた。自分は生きていて良いのだろうか、生きる意味があるのだろうか。そんなとき、あなたが居てくれて良かった、あなたが必要だという言葉や関係性に救われる人をみてきた。仏教の思想とつながる。六波羅蜜、布施波羅蜜。布施は単にお金や物を渡すだけの行為ではない。あなたが居ないと生きていけないんだ、あなたが必要なんだというメッセージを伝えあう、与えあうことにもつながると感じる。
▼イレーヌ・ユーエン(アメリカ、米国ナローパ佛教大学)
長年チベット仏教に携わり、いまはチャプレンのトレーニング講師もつとめる。様々な国や活動の発表を通して、それぞれの国々によって文化背景やしきたり、死生観、自殺観も違うことを痛感した。当然、自殺対策の方法論も違う。さらに今回は、宗教者として生きる人、心理学者として生業をもちながら仏教徒として生きる人、キリスト教者だけれども仏教のメソッドを積極的に取り入れる人など、本当に多様な人が集った。多くの発表を見聞きし議論するなかで、最初は違いを感じることが多かったが、徐々に共通する点もあきらかになってきた。ここで集まったつながりを大切にしたい。仏教のサンガは宗教者だけでなく在家の人とも一緒に活動する。苦悩する人、支援する人、という区別はない。等しく仏道を歩む仲間。苦悩する人がその困難を克服した経験は、同じ苦悩をもつ人の励みになる。今回のシンポジウムで出会った仲間は、それぞれの領域や方法論で、苦悩する人の力になりたい、という大きな目的をともにする。今後も協力していきたい。
▼プラーワッテ・タンティピワタナスクン(タイ、国立タイ健康促進協会)
タイでは、対人支援に関わる方の研修などで「これまでに自殺をしたいと思ったことがある人」と問うと、毎回参加者の一定数はそのようなことを考えたことのある人がいる。そのなかには僧侶もいた。以前にそのような思いを抱え、出家して僧侶となったという。タイでは、自殺念慮の想いがわきおこってくると、それはいけない考え方だから無くしてしまおうと考える。しかし、そのように思いを無くそうと考えると、さらに死にたい思いが強くなる。自殺願望の方が力をつけて近寄ってくる。このような痛みに耐えることができる人は、様々なテクニカルなやり過ごし方を学ぶとともに、その苦悩をどのように引き受けることができるのか内面を磨いていくことも必要となる。マインドフルな対象法を学んでいく必要がある。
▼岡野正純
神奈川県座間市のアパートの一室で9人の遺体が見つかった事件について意見を伺いたい。まだ調査の真っ只中なので正確なことは何ともいえないのかもしれませんが、Twitterで自殺願望のある女性を誘いだしていたという報道がなされています。
▼小川有閑
まだ調査の最中で正確なことが分からないなかで安易なコメントはできないなと思いますが、自殺という言葉がセンセーショナルな大きなトピックで扱われると、ご遺族は大変しんどい思いをする。今回は実際に自殺をした事件ではないのでWHOが推進する自殺報道の基準に適用されない。しかし今回の報道によって、辛い、しんどい思いを抱えている方がいるのも事実。報道の在り方について改めて考える必要があるのではないか。少し話は変わるが、オウムの事件のときに「日本のお寺は風景でしかなかった」という信者の発言があった。苦悩を相談するところではない。それから20年の月日が経って、果たしていまはどうか。自戒を込めて、当時とそんなに変わってないように感じる。自殺対策に関わっている宗教者だけでなくて、それぞれの地域にあるお寺に、付き合いのある宗教者に、何かつらいことがあったときには相談してもらえるような信頼関係をつくっていかなくてはならない。全国に約7万あるお寺がお悩み相談の場所になれたら、苦悩を抱えながらでも生きていける社会になるのかもしれない。そのためには、先ず一人ひとりの僧侶が努力をしていかなければならない。
▼野呂靖
今回の事件で考えないといけないことは、人のいのちをどう捉えるか。今回の事件についてどのような意見があるのかTwitterを見てみると「あの人たちは自殺したかったんでしょう。どうせ死ぬいのちなんだから、よかったんじゃない」というような主旨の意見がある。死んでよいいのち、生きた方がよいいのち、そんな基準があるのはおかしい。人のいのちについて判断することなんてできない。相模原市の障がい者施設で19人が殺害された事件のさいも、障害をもっている人は生きている意味のないいのちだという意見があった。いのちを選別することはできない。あらゆるいのちは、死者を含めて平等である。いのちを選別している、意識的、あるいは無意識の価値観の怖さを感じる。
▼イレーヌ・ユーエン
自殺は複雑に絡み合った問題であり、すぐに解決法が見つかるわけではない。自殺に追い込む社会的な原因も、アメリカと日本では、共通する部分もあるが、異なる部分も多い。様々な事件に対して直接の解決法にはならないかもしれないが、私たちは先ず自分のこころの声に耳を傾けることが大切。こころは悲しんでいるかもしれない、怒っているかもしれない、傷んでいるかもしれない。自分の悲しんでいるこころを慈しみのこころで抱きしめる、抱擁してあげることが大切。社会の問題がすぐに無くなってしまうことはありえない、様々な問題は継続し続けるかもしれない。世界の苦しみであれ、友人の苦しみであれ、自分の苦しみであれ、ともに支える力が私たちにはあると確信している。
[質疑応答]
Q:かかりつけ病院のように、かかりつけ寺院があれば良いなと思いました。
A:都市化が進み、従来の家制度が崩れ、旧来の檀家制度が薄れて、個人とお寺の関係をつくっている人が増えているように感じる。様々な宗教者、お寺がある。自殺対策に関わる僧侶、地域貢献に熱心なお寺、環境問題に関わる宗教者、貧困の問題に関わる宗教者、地域密着のお寺、本当にそれぞれ。自分にあう宗教者、お寺との関係を結んでほしい。(小川有閑)
Q:20年前に自殺未遂をしたが、助かってしまった。その後に結婚して、子どもも生まれた。だけど、あのとき助かって良かったと思ったことは一度もない。もう自殺する気力もない感じ。このまま生きていて、良いことがあるのでしょうか。
A:いまも死にたい思いがあるのかもしれません、助かって良かったと思えない気持ちがある。一方で、こころのどこかには助かってよかった、生きていたい、という思いも微かにあるのではないか。毎日毎日つらい苦しい思いを抱えながら、どうにか生きてこられた。少しでも気持ちが楽になる戦略をお伝えしたい、幸せの度合いを増やす方法です。一つ目に、毎日目覚めたとき、自分におこっている幸せなことを5つ挙げる。些細なことが良い。毎日これを繰り返せば、日常のなかには小さな良いこと、些細な幸せがあることに気づき、そちらに目が行く。二つ目に、毎日ちょっとずつ、身体を動かしたり、自分が楽しいと思えることをやってほしい。身体を動かす、子どもと遊ぶ、呼吸をする、自然を感じる、友人と他愛のない話をする、何もしないとか。何をやっても良い。頑張ってやり過ぎでは駄目。少しずつ、ちょっとずつ。その瞬間リラックスできることによって、小さな幸せがみつかる。三つ目に、誰かの役にたってみる。些細なことで大丈夫。町に落ちているゴミを拾ってみるとか。困っている人の力になることで自分も幸せになる。これを考えるのではなくて実際に数ヶ月やってみる。行動の変化によって、少しずつ気持ちも変化していく。(プラーワッテ・タンティピワタナスクン)
Q:宗教者だからといって苦悩する人の力になれるのか。自分は終末期医療の現場で働いているが、患者さんが宗教者を求めること、必要とすることは滅多にない。宗教者が自身の死生観を語ることは悪影響な気がする。せめて、しっかりとその人の想いに耳を傾けて欲しい。果たして、宗教者に、そのような傾聴の力があるのか。
A:アメリカの病院でチャプレンをしている。アメリカにおいても、宗教に違和感をもっている人に応答することはよくある。患者の本当の想いに関わることができれば、例え宗教的な違いはあれど、信頼関係を結ぶことはできる。その信頼関係によって、より深刻な苦悩やグリーフについて話し合うことができる。しかし、そういう方に対応するさいには、援助者自身の基盤が問われることになる。僧侶が自らの死生観に関する確固たるものがあれば、苦悩する人の闇を一緒に歩むことができるかもしれない。仏教者として、医療従事者として、他者を助けようとする共通の目標をもっている。その思いを共有して、ともによりよい方法を模索することが大切。(イレーヌ・ユーエン)
Q:先祖からの業を自分で断ち切りたいと思い、自殺する人もいる。精神疾患や身体的な障がい。自分という存在を否定し、血脈を意識しすぎる感じがするが、どのように考えたら良いか。
A:仏教では、いま私が生きている原因は、無数の因の結果だと考える。たった一つの原因によるとは考えない。無数の因の結果によって、私はいまここにいる。例えば、何かものを盗んだからといって、その一つの原因によって、その後の生が決まるわけではない。仏教は、強いこだわりをもつことによって苦しみが生じると教える。執着。苦しいことがあるとその部分にだけ注目してしまいがちだが、一つのことに囚われ執着してしまうと苦しみは大きくなる。私はこころが弱い人間だ、こういう病気も持っているということに囚われてしまいやすいが、それでは思考が狭くなってしまう。そのことに気付き、執着を無くしていく。言うは易く行うは難し。実践するのはとても難しい。死にたい思いをもっている私、というように自分のことを俯瞰的に、客観的にみるこことができると、心が少し軽くなる。(野呂靖)
Q:宗教者だから、何か特別なことができる、というある意味傲慢さを感じた。宗教者は助ける側で、一般の苦悩する人を助けられる存在という感じがした。
A:宗教者が救う側だとは思っていない。宗教者、僧侶も完璧な存在ではない。私は様々な縁によって、今たまたま元気。だけど、いつ自分が死にたくなるか分からない。だから、元気なうちに、少しでも力になりたいと思う。檀家制度のなかでは僧侶と、檀家という縦の関係があるのは否めない。しかし、仏教のサンガというのは、僧侶だけの集団ではない。僧侶も、在家の仏教徒も、ともに手を取り合って、苦悩する人の力になっていきたい。(小川有閑)
声明文の発表
ジョン・ワッツ(JNEB)・竹本了悟(浄土真宗本願寺派総合研究所)
自死の苦悩を抱える〈あなた〉へ
朝、目覚めた時、私たちは〈あなた〉へ想いを向けます。そして、今日という1日が〈あなた〉にとって、居心地の良い和やかな日となることを願います。夜、眠りにつく時、私たちは〈あなた〉へ想いを向けます。そして、今日という1日に起こった〈あなた〉の苦悩へ想いを馳せます。
この度の「仏教と自死に関するシンポジウム」を通じて、私たちは、国を超え、宗派を超えて、1つの想いを共にしました。それは、仏教者は今まさに苦悩している〈あなた〉の心を和らげるために居るのだ、ということです。私たちは〈あなた〉の心が少しでも和らいで欲しいのです。〈あなた〉の心が楽になり、安心した日々が過ごせることを願っています。
私たち仏教者は、世界中が温かさに満ちあふれ、〈あなた〉が絶望的な孤独を感じなくてすむように、出来る限りの行動を起こします。 そして、いつでもどこでも、自死の苦悩を抱える〈あなた〉と共に歩みます。
閉会挨拶 竹本了悟(浄土真宗本願寺派総合研究所、NPO法人京都自死・自殺相談センター)
今回のシンポジウムを通して、人と人とが触れ合うことの優しさと怖さを感じた。手当てという言葉がある。ただ手を触れるという行為によって相手の痛みを取ることもある。対人支援も同じだなと感じている。子どもが怪我をしたときに手当をする感覚。
今回、海外の方と数日間ご一緒して、熱い想いや優しさ溢れる言葉を交わすことによって、その人はもちろんのこと、その国や文化も好きになった。一方で、価値観の否定や、相手のことを打ち負かすような関係は、お互いに痛みをともなう。優しや慈しみの思いをもつことによってあたたかさが伝わる。
さらに、心理学や医療に関わる海外の方の発表から、抽象的な議論にとどまらず、科学的なアプローチ、エビデンスにもとづく実践をおこなう重要さも教えてもらった。科学的な実証をもって、活動を昇華させ、普遍的な取り組みをつくっていく。実践と研究の両輪で活動する重要性を学んだ。文化が違うからこそ、お互いの交流によって、新しい言葉や概念を生み出す。ここに集う仲間たちの大きな目的は、自死にまつわる苦悩を抱える方のその苦悩を和らげたい。国を越えて、宗教を越えて、今後とも手を取り合っていきたい。
所感
日本において初めての試みとなる、仏教と自死に関する国際的な交流の場となった。これまでは、日本国内での交流がほとんどであり、海外の実践的な情報を得ることが難しかった。本シンポジウムを通じて、仏教者でもある支援の従事者から直接の報告を聞けたことは、今後の日本における宗教者による支援を考える上で、大いに示唆に富むものであった。また、自死に関する課題先進国である日本の取り組みについての情報提供ができたことは、参加した海外招聘者にとっても、良い刺激となり、有意義であった。
また、一週間というまとまった期間を参加者と共に過ごすことにより、国を超えた宗教間対話、それぞれの支援活動に関する熱意や思想の共有、文化交流など、お互いの関係が深まり、一層の相互理解につながった。今後の新たな取組を創出していく、基盤を築くことができたように思う。
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