「自殺の実態と対策 ー日本と川崎市の紹介ー」竹島正(川崎市精神保健福祉センター)
WHOによる自殺対策のレポートでは「自殺を口にする人は実際には自殺するつもりはない」「精神障害を有する人のみが自殺の危機に陥る」「自殺について話すのはよくない」などは俗説であり、間違っていると指摘される。
自殺による死亡であると判断するには注意が必要となる。遺書を残して首吊りをして亡くなったケースは自殺だと判断しやすい。しかし、精神疾患を抱えた人がたくさんの薬を飲んで死んだ場合は自殺になるのか。その死が自殺であったか否か、本当に自殺であったのかを検証する必要がある。自殺が他の死因と大きく違うのは、自殺は家族や近しい人に大きなメッセージを残す。
9月1日に学生の自殺が多いと報道されたが、それによって自殺者数が増えた。メディア報道にも大きな注意が必要。メディアに対しては、ガイドラインが示されている。
1998年以降自殺者数が急増して、2006年に自殺対策ができて、効果があらわれるのには20年かかった。日本の対策の特徴は自死遺族の支援が中心であるということ。法律ができる前と後では、全国で対策に取り組む団体が大きく増えた。今年の月別での自殺者をみると、減少の度合いは少なくなっており自殺者数が増えていることもある。急増したものを減少させることは、比較的簡単だが、自殺数が急増する以前の数値に戻ったいま、これを減少させるのは一段と工夫や取り組みが必要。自殺対策ができて以降、様々なリスクを抱えた方への法制度が整えられた。それが直接的・間接的に自殺対策に効果がみられる。
自殺予防とは「その人の本来の自由を回復する」「自殺は不名誉な死であるかのような誤解はなくす」取り組みだと考えている。自殺は特定の弱い人に起こるものではない、誰にでも自殺に追い込まれる可能性はある。
「保健師活動と自殺対策」津田多佳子(川崎市精神保健福祉センター)
川崎市は地域包括ケアシステムに力をいれている。つながり、連携、支え合いの仕組みをつくること。自助(セルフケア)、互助、共助、公助をバランス良く動かすことが大切。
地域包括ケアシステムがはじまる前は、対象によって担当者が縦割りだった。組織再編によって、いまは地域担当制になっている。それぞれの地域の特徴を捉えて、地域に必要な活動を行っている。保健師が担える自殺対策について考えてみたい。
一次予防(プリベンション・予防)「自死・自殺に関する市民への普及啓発活動」、二次予防(インターベンション・介入)「問題・課題を抱えた人が、相談・支援に早期につながる体制づくり」、三次予防(ポストベンション・事後対応)「遺族支援」。また、駅の転落防止の柵は、0次予防だといわれる。社会的な環境を整えていく、そのような提言を行政に伝えていくのも役割だと思っている。保健師は医療職としての基礎的な知識、技術を活用して、個人や家族などに働きかける。地域づくりの一役を担う職種。個人や地域住民の健康の保持増進、予防活動を通して地域づくりを進める。いのちを守る、いのちを尊重する姿勢が基本であり、自殺対策の一助を担えることができる。
「自死関連の臨床面接から」村澤孝子(京都府精神保健福祉総合センター)
私は心理学の専門職。毎日センターに来談される方に対して面接の相談に対応している。
京都府の自殺の現状について。昨年は過去20年で自殺率が一番低かった。全国でも5番目に低い。自殺率が一番高いときと比べて40%減少。しかし、若い人の自殺が減らない。全国でも同様の傾向。20代の男性の自殺が多い。京都府は大学が多く、学生の数も多いので、自殺率が高いと思われる。10代と20代では、自殺の要因が違う。うつなどの精神疾患は共通しているが20代は仕事・給与のこと。10代は入試・勉強、孤立感やつながりの薄さが要因になっている。
京都府の取り組みの一つとして、LINEを活用した、自殺ストップセンターの活動があり、通話料無料。また、大学生対象に単位を取れる自殺対策の講座をつくっている。さらに、官民連携のイベントを毎年おこなっている、全国的にも官民連携のイベントは珍しい。
いま力をいれておこなっているのが小中高生を対象としたメンタルケアの出前授業。援助希求を高める講座。一次予防プログラム、リジリエンシープログラム。PRPプログラムを参考に、学校介入プログラム。MRBプログラム、軍隊で使われるプログラム。危機的な問題を抱えてから相談するまで10年ほどの歳月が必要だといわれる。小学4年以降が対象。うつ病の発症が低まる、自己実現が高まるなどのポジティブな影響がある。「貴方の親友に対して、どのような言葉をかけてあげますか?」などの認知行動療法のプログラムを活用しながら、独自にプログラムを開発。楽しいプログラム。受講した生徒、受講していない生徒にも良い影響を与える。受講した生徒が楽しくて、ついつい他の生徒にも話してしまう。
日本では精神疾患への偏見が非常に強い。発症に気付いてから長い間ほっておく理由は、そのような病気であることへのネガティブな印象をもってしまうので自分から言い出さない。
普通の中学校より、進学校の方が、保健室の先生の所にいく確率が約10倍。アジアのなか、特に日本人は精神的なストレスが身体から表出するケースが多い。
漫画『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』、略して「死に辞め」。漫画と同様の相談が多い。世間からすれば、死ぬくらいなら会社を辞めれば良いのに、学校を休めば良いのにと思われてしまうが、それができないのが日本の現状。家族や周囲の人に心配や迷惑をかけたくない。さらに、周りのサポートが薄い。親は大切に思うからこそ、子どもに心配しているよ、大切に思っているよ、というメッセージを発する。だけど、それが子どもに過度なプレッシャー、迷惑をかけてはいけないという想いを強めている。
アファメーションという技法は効果がある。そんな私を許します、認めます、愛します、癒やしますという言葉を、自分自身に言ってもらう。それだけでも、気持ちが落ち着く。
いまのところ京都府では宗教者との連携はない。困難な状況の方の相談に対して、先ず金銭的な支援、就労の支援、人間関係の支援など緊急対応につなぐ。しかし、もっと根本的な価値観の変容が必要だと感じることもある。少し気持ちが落ち着いたさいには宗教者との連携も可能性が考えられる。
命日反応というものがある。命日への不安。そのときになると、過去の想いがわき起こってくる。過去のトラウマ。宗教的な思想により、死に対する不安、大切な人を亡くした方への自己責任を和らげることも期待される。以前よりも世代間伝達はされていない。ものごとの考え方や伝え方は、お母さんの影響を強く受ける。
子どもたちは、親が亡くなったときに、自分の責任だと感じてしまうことが多い。子どもは良くも悪くも自己中心的な価値観をもっているので、より自分に対して責任を向けやすい。どんな言葉を尽くしても、その苦悩が全て払拭されるわけではない。「親友の立場だったら貴方はどう思う」と自分の枠組みを外して、考えてもらうような技法を使う。技法なので上手くいく時、いなかいケースがある。最も大切だと思うことは、安心できる人が近くにいる、尊重してくれる人がいること。
「日本における<自死>・<自殺>用語の用例と自殺観の変遷」野呂靖(浄土真宗本願寺派/龍谷大学)
日本では自らいのちを断つことを自死・自殺と表現。日本ではこれまで自殺という用語が一般的であったが、最近は自死という言葉が使われはじめた。何故このような言葉の変遷があるのかについて考えたい。
自殺は自らを「殺す」。自死は自ら「死ぬ」。最近では、自死という表現が使われることが大きくなった。背景は二つ。一つ目は自殺・自死は弱い人がおこなう、個人の問題として捉える。しかし実は経済的な問題、社会的な問題、環境に追い詰められた末の死であることが分かった。「自ら」という問題だけには集約できない。二つ目に、大切な方を亡くされた遺族からすると「殺す」という表現はきつい。ショックが大きいため、自殺という言葉を避けて通る。ところが、自死と自殺という言葉を二つ使うので、どちらを使えば良いのか、全国で混乱が生まれた。そのようななかで、2013年、鳥取県、島根県は、全ての行政文書を自死にする、自殺という言葉を使わないとの条令ができた。遺族から自殺という言葉を使わないで欲しいという強い要望があった。この判断には遺族からの賛同の声が多くあった。同時に、批判もあった。例えば、ある自死遺族の団体は、公式の声明文で「自死に統一するのは良くないのではないか。遺族への配慮のみならず、念慮を抱える人への思いも考える必要がある」とのメッセージがある。
歴史を振りかえってみる。中国では、自決、自害、自刃、自死、自殺などたくさんある。さらには、投身、捨身なども使われる。ここで大きなポイントは自殺が悪いとか、自殺を否定しているという背景や意味はない。価値観についてニュートラルな表現、行為を指した言葉でしかない。
仏教では当初、投身という言葉が使われていたが、時代を経て、自殺、自死という言葉に変更された事例がある。もともと投身は行為を指していただけだが、自殺・自死という「自ら」を含意する言葉の使用が増えていった。自殺は悪いものであるという価値観が付与された可能性がある。
8世紀、平安時代の古事記や日本書紀に、自死という言葉が多く使われる。自殺という用例は出てこない。10世紀、鎌倉時代になると自殺という言葉が増えていったが自死という言葉も残っている。『往生要集』には自殺という言葉が使われる。単にいのちを断ったという意味。川柳では自殺がほとんど。自死もなくなったわけではない。並列して使われた。自死、自殺という言葉に、みずから死ぬという行為を示したものであり、価値観は入ってなかった。
明治期、近代化されると、自死という言葉がなくなる、自殺という言葉だけが使われる。朝日新聞のデータベースを見ると、自殺という言葉は大変多いが、自死は10年間で18例。全くないわけではないが、ほとんどない。国立国会図書館のデータベースによると、明治から大正にかけて、自死という言葉は5件のみ。これまで自殺と自死という言葉が並列で使われていたのに、自殺だけになった。
その理由を考えると、一つ目に江戸時代の用例をみると自殺が多かったので、この時代の影響を受けたため。二つ目に、英語の文章を翻訳するなかで自殺という言葉が使われるようになった。いのちを断つということを批判的にいわれるようになったとき、自殺という言葉が意図的に活用された。いのちを断つことは重罪。神から抱いたいのちを自ら失ってしまうことは駄目だ。フランスの哲学者、モンテスキューは、自殺を防ぐという論述のなかで自殺は罪だという指摘をしている。これを英訳するなかでも自殺という言葉が使われる。自殺は罪だという法案もある。
僧侶たちが、自殺という言葉を積極的に使った事例もある。仏教は厭世的、極楽浄土にいくことが重要だとするならば、現世での生を批判することになるのではないか、その厭世的な理由により自殺が多いのではないか、というキリスト教からの強い批判があった。明治期の仏教者たちはそれに応答するために、仏教は自殺を悪だ、認めていないということを強調するようになったと考えられる。
自死という言葉が復活するのは1966年、小説のなかで。現在では、自殺というネガティブな面を弱めるために、自死という言葉が積極的に使われるようにった。時代によって言葉は変化する。言葉は意味をあたえる、付加する。自死は遺族への配慮することに大事。しかし、特定の言葉に集約することは、多様な想いや考え方を排除することにつながる。
アメリカでは、高齢者や終末期の患者が死にたいという思いに対して、日本語でいうところの尊厳死や自殺ほう助の議論が盛んになっている。韓国では、自害という言葉を使う。最近では表現を変えていく機運もある。言葉がもつ意味合いへの配慮が必要。社会に対して、言葉をもつ安堵、安心を伝えていきたい。ドイツでは法律で言葉が決められた。一方で、ゲーテの古典には自由な死をという意味合いをもつ言葉が使われることもあるが、一般的には使われない。
「自死・自殺の問題に思うこと」※新聞社掲載不可 鷹見有紀子(リメンバー名古屋自死遺族の会)
葬儀と自死についてお話します。
遺された者は、「葬送」と「死別の悲しみへの対処」の専門家として、宗教と宗教者に対し、大きな期待を抱いています。しかし、期待通りにならないことがよくあります。多くの自死は突然起こるもので、その死が起きたとき、遺族は心の準備、葬儀の準備が整っていません。何も準備ができていないということは、当然お金の準備もありません。しかし、日本の葬儀の仕組みはうまくできていて、参列者がお金を袋に入れて持ち寄る習慣があります。葬儀代金はほとんどの場合、一連の儀式と火葬が終わった後で支払うことになっています。突然の死に際したとき、お金の準備ができていないことを皆が分かっていますし、助け合いの精神が根付いているからです。そんな中で、儀式をつかさどる宗教者だけが、葬儀の直後に遺族からお金を持っていきます。そのお金は「お布施」と呼ばれていますが、多くの人には、宗教者に支払う「料金(対価?)」として理解されています。困難な状況の人からお金を取っていく人は他にいません。「お布施」を葬儀の当日に現金で宗教者に手渡す、というのは、決して個々の宗教者の意向ではないのですが、葬儀社から遺族へのすすめなどにより慣習化しているように思います。葬儀の当日に、まとまった現金を用意するというのは、遺族にとってとてもたいへんなことです。遺族は、警察に呼ばれたり、自死の現場を片づけたり、ただでさえ時間がない中で、宗教者に渡す現金を用意するために、火葬場に行く前にATMに行かなければならないこともあります。また、「布施」という行為に慣れていない人は、時間当たりの平均的な賃金などと比べて、宗教者に手渡すお金の金額を「高い」と感じます。家族が自死するということは、人生最大ともいえる困難な状況にあります。その、困難な状況の真っ最中に、遺族から高額なお金を持っていく宗教者の感覚を、遺族は人として信頼できません。「思いやりがない」と感じます。信仰が無い人も多いので、宗教者がどんなに特別な、すばらしい儀式をしてくれたとしても、その意味がわからず「意味がわからないものに高いお金を払った」という違和感だけがのこります。宗教者との信頼関係はマイナスからスタートすることになってしまうのです。
次に、仏教と自死についてお話します。
日本では、仏教が、死に様によって人を差別する宗教であると誤解されています。五戒の中の「不殺生戒」を根拠に持ち出して、「自殺は悪い死に方」と決めつけて、自死した人を悪く言う人がたくさんいます。また、誤解して広まってしまった仏教用語が多くあります。一例として、「自業自得」「報い」「因果応報」などの言葉があります。これらは、「悪いことの結果」を意味する言葉として日常用語にも浸透しています。
これらの言葉を、自死者の葬儀の場で吐き捨てるように呟いていく参列者がしばしば存在します。私は葬祭ディレクターとして、少なくとも千件以上の葬儀に立ち会っていますが、なぜ人がこれらの言葉を呟いていくのか、理由はいまだにわかりません。つぶやきを聞いた遺族は、とてもつらい思いをします。その言葉の本来の意味ではなく、その言葉が実際に使われている意味によって苦しい思いをするのだと思います。しかるべき専門機関が、仏教用語の本来の意味を、ことあるごとに、繰り返し伝えていってほしいと願います。宗教者個人だけではなく、もっと大きな組織単位で伝えていってほしいと思います。そうしなければ、間違って伝わってしまった言葉の意味は変えられないと思います。
「死に様によって人を差別する宗教」、「自死した人を貶める内容を流布する宗教」を人は信じたくありません。仏教がこのように誤解されていることは、仏教にとって損失であるばかりか、人類にとっても大きな損失であると考えます。仏教によって救われる機会を失ってしまうからです。
次に、当会のフィールドである、名古屋における状況についてお話します。
名古屋には「いのちを考える宗教者の会」という、超宗派の宗教者のボランティア団体があります。数年前から、自死者追悼法要と、自死遺族と宗教者による分ち合いの会『いっぷく処』を定期的に開催しています。この団体の活動により、少しずつ、自死遺族と宗教との信頼関係が回復してきていると感じます。2017年5月に、当会のスタッフを対象に「宗教や宗教者に言いたいこと」を募ったのですが、概ね、感謝の思いしか集まりませんでした。概ね、というのは、「あるお坊さんからこんなことを言われて嫌だったけれども、別のお坊さんがこんなことを言ってくれて救われた」というような声が複数あったということです。嫌なことを言うお坊さんは相変わらずいるけれども、いいことを言ってくれるお坊さんも増えてきた、ということだと思います。12年前に同様の意見を募った時には、「宗教者からこんなことを言われて傷ついた」「こんなことを言われて嫌だった」という声しか集まりませんでしたので、良い方への変化を感じました。
信頼関係の回復には、当会が2012年開催した自死遺族支援セミナーの意義も大きいと感じています。「仏教は自死遺族を救うことができるのか」をテーマとした講演会でした。「不殺生」という言葉は「自分を殺してはならない」という意味ではないということや、ヴァッカリが自死する前後のエピソードによって、「お釈迦様は自死という死に様を否定していないようだ」「お釈迦様は、自死した人やその周囲の人を責めていなかったようだ」ということが自死遺族当事者に伝わり、大きな助けとなりました。
個人活動といのちに向き合う宗教者の会の報告 根本紹徹(臨済宗妙心寺派/いのちに向き合う宗教者の会)
自殺予防の活動は、インターネットを活用しながら、13年前にはじめた。
日本では不審死が7万人、行方不明者15万人だといわれる。自殺者は3万人をきったといわれるが、自殺者のカウント方法にも問題があるかもしれない。人を救うために仏教は役に立つのか、という関心で活動を続けている。ワークショップや座禅のリトリートなどを通して、様々なチャレンジをしている。
いのちに向き合う宗教者の会の代表を務め、名古屋で活動している。年に5回、自死遺族を対象とした座談会をしている。宗教者だけでなく自死遺族の会と連携しながら活動している。宗教者の独りよがりな活動ではなく、一般的な視点でフィードバックをもらえることが大切。年に一度、追悼法要もしている。自死遺族から「私が死んだら、自殺した私の大切な家族に会えるんですか?」と質問される。どう答えるかというよりは、真剣に関わってくれているということを実感してもらえることの方が大切。
座禅とメディテーションの違いについて。座禅は目的をもって行うようなものではない。目的や答えに向かって行うものではない。悲しみ、苦しみ、辛いことがわき起こってくることもある。自分にとって座禅は、美味しいものを食べたときや、お風呂に入ったときにサッパリするような、ここちよい感覚。自分はどうしようもない人間だが、座禅という本物にぶらさがっている感覚。ありのままの自分でいるための方法。
7日の夜に根本さんの自殺予防活動についてのドキュメンタリー『The Departure』を映画。「これはどこまでがシナリオなんですか?あまりにパワフルでノンフィクションだってことが信じられない」との質問に対し、映画の主人公である根本一徹さんは「本当に日常の様子だから、ホームビデオを撮ってもらった感じ。妻も同じこと言ってる(笑)」と応えていたことが印象的。対人支援の意義と難しさを確認する上でも、貴重な情報であった。
「自死・自殺に向きあう僧侶の会の活動から」小川有閑(浄土宗/自死・自殺に向きあう僧侶の会)
自死・自殺に向き合う僧侶の会の活動について報告する。手紙相談「自死の問い、お坊さんとの往復書簡」、自死者追悼法要「いのちの日、いのちの時間」、自死遺族の分かち合い「いのちの集い」を行っている。
手紙相談の発案は、時間、場所など、その経緯には消極的な背景もある。事柄についての質問をするよりも、感情に焦点をおくことを大切にしている。手紙を書くことによって問題を整理する手伝いにもなる。複雑に絡んだ問題を一つ一つ整理していく。手紙は手元に残るので、いつまでもあたたかさが伝わるという効果が期待できる。また、手紙は文字によって心理状態が想像できるので、対応がし易い。自分の力で立ち上がれるようになるまで、そのお手伝いをする。
宗教者による自殺予防は、治療的な立場にはたたないことが重要。そのままをうけとめる姿勢。社会の価値観から逃れる場所をつくる役割(心理的アジール・避難所)。自死遺族は、大切な家族が自殺したとは到底言えない。自死遺族特有の沈黙の悲しみがある。安心して悲しめない。社会は自死についての偏見に溢れている。遺族の集いは、気持ちを分かちあうことを大切にしている。毎月開催。平均参加者は40名程度。他の団体に比べても圧倒的に多い。
追悼法要は、年に一度開催。150名ほどの参加者。色んな理由で葬儀を満足にできなかった方が多い。家族でも気持ちがバラバラで、家族・親族同士で責め合うこともある。葬儀が苦しみの場になるケースが少なくない。参加者のアンケートをみると「父に思いを伝えることができた」「少しの時間でしたが、娘に会うことができたように思います」など、亡くなった人と交流できている様子が分かる。亡くなった人とつながれる。自殺したからといって差別されない、安心して亡き人を偲び、弔う場を提供している。
「自死問題に関する伝統仏教教団の役割 〜曹洞宗の取り組みから〜」宇野全智(曹洞宗総合研究センター)
悲しみを抱えて悩んでいる人に対して、真剣に伝統教団は関わってこなかった。創価学会は「貧、病、争」をキーワードに活動を行ない、教線を伸ばしていった。伝統教団は自己反省を踏まえ、改めて、僧侶とは、寺院とはということの根っ子を見つめ直す必要があるのではないか。
苦悩を相談してもらえるお寺になりたい。かかりつけのお医者さんのように、かかりつけの寺院になる。どんな悩みや不安であっても、先ずはお寺に来て、住職やお寺の奥さんに相談する、そんなお寺をつくっていきたい。ゲートキーパーの役割は、苦しみや悩みをもつ人の支援の入り口。その役割を僧侶が担えるのではないか。かかりつけ寺院として機能するためには、「寄り添う」「話を聞く」ことが大切。しかし、そんなに簡単なことではない。良かれと思った一言がかえって相手を傷つけてしまう。僧侶は説法するのは得意だが、人の話を聞くのは苦手。
そこで曹洞宗では、「いのちにむきあう」ことを目的として、全国50ヶ所、述べ約11,000人の僧侶に対して座学と実践の研修会をおこなった。座学だけの講座ではなく模擬体験も力をいれた。模擬体験の内容は手紙相談。実際の相談内容を参考にしながらサンプルを用意し、僧侶がどのように応答するかを体験させた。
自死遺族は、自殺のハイリスク者でもある。自死遺族支援として、年に2度、追悼法要を開催。全国各地から参加者がいる。遺族の方から、宗教者に傷つけられる対応をされた、絶望するような言葉をかけられた、という声があった。また、自殺をしたから特別な戒名をつけられることもあった。宗教者による自殺の偏見や差別も重大な問題。追悼法要は、正式なお坊さんにちゃんとした儀式をしてもらえる。供養をすることは、グリーフサポートにとって大切な役割があることを痛感している。
僧侶は家族構成を知っている場合が多い。保健所の職員に「自死遺族の方は、自殺のリスクが高いことは知っている。だけど、声はかけづらい」と言われたことがある。お坊さんは初七日、法事で関わっている。ある程度、家族構成を把握している。ゲートキーパーとしての役割を担えるポテンシャルをもっている。自殺の問題に関わることは、抜苦与楽という仏教者としての本務に立ち返ることにつながると思う。本当の僧侶になるために、お寺の機能を果たすためにも、宗教者が自殺の問題に関わることは大切だと考えている。
「心といのちを考える会」について 袴田俊英(曹洞宗/心といのちを考える会)
秋田県は自殺死亡率が高い。長年、国内の第1位を記録してきた。2000年に心といのちを考える会を立ち上げ、コーヒーサロン「よってたもれ」を開催。その活動が拡がり、サロン活動は全市町村で行われるようになった。長年活動を続けているが、効果的な自殺予防の活動を見つけることが難しい。山地の斜面に住んでいることが自殺率と関係しているといわれる。援助希求が弱い、隣人に迷惑をかけることをできるだけ避ける等の特徴がある。山間地は助け合わないと生きていけない。助けてもらうためには、何かあったときに助ける立場となるように、しっかり生きていかなければならない。こちらが何かをしなければ、助けてもらえない。互酬と互助。秋田県が経済的に停滞していることも、自殺率が高い要因の一つ。
過疎地帯などのつながりが強い地域では、迷惑をかけられない、人のはたらく時間を奪わない、SOSを出してはいけない、といった価値観が強い。つながりが強いところでは自殺率が高い。これまでつながりが薄いことが問題だと考えていたが、実はつながりの質が問題だった。
「よってたもれ」は、地域のなかで、やっかい者扱いされるような、周りからは変わり者といわれる人が常連として集まっている。周囲から抑圧され、生きづらさを抱えている傾向が強い。仏教の役割として、世間から逃れるアジール(避難所)としての機能。また、違う価値観を提示する役割もある。経済最優先の視点でみると、生産性がない人は、世間からは邪魔者扱いされる。しかし、仏教的な価値観で考えれば、そんな扱いにはならない。
秋田県の曹洞宗寺院、約200カ寺を対象に、地域のゲートキーパー講座受講を必須とした。僧侶は苦悩する人の声を聞くと、自分が救ってやらないといけないと抱え込んでしまう場合が多い。自分が人を救う役目だという強い思いによって、全て丸抱えしようとしてしまう。ここで大切にしたいことは、様々な専門家につないでいくこと。悩みの種類によって、それぞれの専門家につなげていく。できること、できないことをしっかり自覚することも必要。深刻な苦悩を相談されると、親身になるか、拒絶するかの二択になる場合が多い。ゲートキーパーの学びを通して、ネットワークを広げ専門家とのつながりを密にして、できないことを減らしていく。
単世帯の老人よりも、三世代同居の老人の自殺率が高いといわれる。高齢になることによって、役に立たない、迷惑をかける、生きていくことの負い目を感じることが多くなる。高齢者は、これまで地域のお祭など大切な役割を担ってきた。農耕社会だと祖父母は孫を見守る、面倒をみる役割を担ったが、保育などの社会制度が整い、生後すぐに行政サービスを受けることができるようになり、その役割がなくなった。祖父母の生きがいがなくなった。つながりの質を変化させることが必要。単につながりの回数を増やせば良いというのではない。ゆるくすることも必要。「監視」から「関心を持つ」へ変わっていけたらと思う。
「死にたい気持ちを和らげる方法」竹本了悟(浄土真宗本願寺派総合研究所、NPO法人京都自死・自殺相談センター)
死にたい気持ちを和らげる方法。相談活動を続けるなかで宗教的な救いと活動が、理念の上で結びついてきた。最初は思ってもいなかったが、活動を通して仏教を味わうことがある。
人間は些細なことで気持ちは変化する。自と他はつながりあっている存在である。縁起的な人間観。周りから影響を受け、周りに影響を与えている。
人間は身体と心によってできているというのが西洋的な理解だが、仏教におけるいのちの概念は気息と熱と見る解釈がある。気息と熱で、お互いに影響をあたえる存在。それから、諸行無常という見方も大切。「死にたい思いをもっている人は、実は生きたいんだ」と盛んにいわれるようになってきたが、仏教的にいうと間違いだと思う。「生きたい」という固定的な思いがあるものではなくて、些細なつながりによって影響をあたえあい、どんな気持ちにもなる、どんな行ないもする。
解脱と救済について、お釈迦さまは色んな道があることを伝えた。苦を楽にする二つの方法として、一つに釈尊のように修行して解脱する道、二つ目に仏陀によって救われていく道がある。修行して自己をコントロールする道と、他者に出遇う道ともいえる。
私たちは本質的な孤独を抱えている存在。阿弥陀仏に出遇うことによって救われる経験は、根底にある孤独が照らされる、光に出遇う経験。阿弥陀仏によって、全ての物事が解決するわけではない。しかし、光に出遇うことによって、周りの見え方が変わってくる。
悟りを開けない私にとっては、あらゆるものを救うことはできない。しかし、目の前にいる苦悩する人に、あたたかさ、ぬくもりを伝えることはできる。宗教的な救いと、人間による対人支援の救いとは明らかに違う。人間による対人支援は、根底の闇を照らすことはできない。しかし、目の前にいる方に、ぬくもりを伝えることはできる。そばにいてくれる、味方になってくれる、そうした人がいることによって、孤独感が和らぐことがある。
「日本における宗教者の自死に関する活動 〜その現状と課題〜」関本和弘(融通念仏宗/自死に向き合う関西僧侶の会)
日本の僧侶は死んだあとに関わることが多い。苦悩する人に、生前から関わりたいという思いをもった超宗派の僧侶が集まった。年に一度の追悼法要、隔月に遺族の集いを開催、また男性のみの遺族の会も行っている。男性は、女性の前で泣くこと、弱音を吐くことが難しい。なので、男性だけの会をつくった。遺族の会はルールをしっかり設けて活動している。
自死者追悼法要は、悲しみなおし。遺族が葬式を勤めるためには、短期間のなかで行わなければならない様々なタスクがあり、悲しむ時間がない。しかも、社会的な偏見や自責の念が強いので、複雑にからみあった心情が起こり、悲しんでいられない。
感情に焦点をあてた傾聴を大切にしている。苦悩する人の想いを無条件に受け入れる。聴くは、聴(ゆる)すとも読む。相手の苦悩をゆるす。何を聴くか、死にたい想いを聴く。死にたいという言葉を安心して吐き出すことによって気持ちが和らぐ。死にたいという思いに焦点をあてて聴く。苦悩を和らげる二つのアプローチ、キュアとケア。キュアは改善・解決。ケアは支える。
身口意(身体、言葉、心)の三業。この3つがつながっていることが経典に説かれている。「死にたい」という言葉は、「死にたいほど苦しい気持ち」を分かって欲しいということ。その言葉を遮らないために、本当の思いを聴くためにも聴くことは重要。
苦悩する人は自分の気持ちを話したいと思うのに話せないのは何故か。否定されるかもという恐怖心。比較されるかもという不安感。他の人に言われるかもという疑い。様々な感情が入り混じるために、本当の気持ちを話せない。
僧侶は聴くことが苦手。傾聴を妨げる要因として、厳しい修行をした人ほど自信に溢れ、自らの経験を語りたい。これからは、お寺という場が、苦悩を抱える方に対して、安心・安息の場所になれるようになってほしい。安心・安全な場所にお寺がなることが大切。
「仏教的なアプローチから子供の電話相談」神仁(インド鹿野苑法輪精舎、臨床仏教研究所上席研究員)
チャイルドラインは、世界145国に開設され、年間で3000万件の相談を受ける。電話・ネットを通じて。世界のNGOのなかで、もっとも子どもたちの声を聞き、子どもたちの苦悩を受け止めている団体といえる。海外ではチャイルドヘルプライン。
1970年代、オランダではじまる。イギリスのサマリタンズが活動の根っ子にある。イギリスでは虐待専門の相談電話としてはじまる。善意の第三者であることが重要。子どもたちは親や先生に迷惑をかけたくないという思いをもっている。
子どもたちの苦悩を受けとめることは大切だが、それを社会化することも重要。社会制度を整えたり、他のNPOに研修をしたり、ファンドレイジングを行なったりすることも役割の一つ。
ヨーロッパ各国のチャイルドラインは電話だけでなくネットの相談も受付けている。日本でも昨年からネット相談も開設。子どもたちにとってスマホをつかって電話することは減っている、ネットの活用がほとんど。さらに格安スマホを持つ子どもたちは増え続け、電話回線を使わない子たちが増えているので、チャイルドラインの電話相談のサービスを受けることができない。そのため、ネット相談の需要はより高まるものと想像される。
チャイルドラインは、全てのこの世に存在するいのちは比較することなく絶対的に尊い、という姿勢で活動している。その理念は、①子どもが人としての存在を尊ばれ、安心できる場を提供する。②子どもが自分の力に気づき、生きる力を育んでいく場の提供をする。マインドフルネス的な視点。③子どもたちの声や思いを社会化していく取り組み。エンゲイジドブッティズム的な視点。
子どもたちは、自分のなかに答えをもっている場合が多い。その答えを確認するために電話してくる。何か教える必要はない。仏教的に考えると、子どもたちは全員、仏性をもっている。その仏性を開発するためにエンパワーメントしている。いじめを受けている子どもたちは自尊感情がとても低い。日本の子どもたちは特に、自分のことを価値のある人間だと感じている子は非常に少ない。チャイルドラインでは自殺の予防プログラムにも力をいれている。児童館や学校に対してアウトリーチを行うプログラムをはじめた。
傾聴と深聴。語りを紡ぐことで、ナラティブになり、内省を深め、認知を変化させることができるのか。自分自身の苦しみをいかに語り、いかに理解し、いかに受け止めていくのか。仏教的なアプローチを、電話やネットの相談を通して実践している。
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